折り紙

気象庁によると、日本の一部は梅雨入りしていますが、全国的な梅雨入りも、遠くないものとおもわれます。 

 

梅雨は鬱陶しい季節ですが、植物、特に草花が色も形も様々な花を咲かせ始める季節です。  

 

さて、既に過ぎてしまいましたが、5月の連休に見た生け花の話です。 いかりじろうが住んでいるマンションの玄関ホールには花を飾るコーナーがあり、いつも季節の花が生けてあります。 現在は紫陽花が飾られています。 そのコーナーに5月の連休の時、武者人形とアヤメの生け花が飾られていました。 今は5月の連休やゴールデンウイークという言い方が一般的ですが、昔55日は端午の節句33日の女の子の雛祭りに対して男の子のお祭りです。 武者人形と季節のアヤメの生け花は、まさにぴったりです。 ところが、その生け花をよく見ると、水盤に生けてあるアヤメがなんと折り紙です これにはびっくり、そして感心しました。 折り紙の緑の茎と紫色鮮やかな花弁、そして武者人形(これは本物)、見事な構図です。  

 

これを生けたのはこのマンションの清掃などを担当する女性グループのリーダーの方です。 連休明けに、その方と顔を合わせた時、折り紙のアイデアが何処から来たのか聞いてみました。 彼女曰く「はじめは本物を生けようと思ったけど、私達も連休で水替えも出来ないので、思いついて折り紙にしました」ということでした。  

 

なるほど!! 聞けば、その方の娘さんが介護施設にお勤めで、仕事の中で折り紙を活用することもあり、そのあたりも折り紙生け花のアイデアの発生源のようです。 まさに「花菖蒲 ただしく水にうつりけり」です  

 

折り紙の「アヤメの生け花」と武者人形を見て、改めて折り紙の素晴らしさ、面白さを感じた次第です。               久保田万太郎 

 

編集後記 

紫陽花や女ごころに似ていろいろ   荻野千枝 

紫陽花の色は生えている土壌の酸、アルカリの度合いで変化するそうです。 環境の変化を受けるのは女心も同じでしょうか? 

 

帚木(ははきぎ)

今年(2020)は源氏物語が歴史的に確認されてから丁度?1012年だそうです。 源氏物語は世界最古の小説、日本が世界に誇る文化遺産ですが、余りに長大でいかりじろうは粗筋を解説した本しか読んだことがありません。 

 

と云うわけで源氏物語を余り身近に感じたことはなかったのですが、数年前友人のところに遊びに行った時に面白い話しを聞きました。 その話と云うのは「源氏物語に出てくる帚木(ははきぎ)が実在する」と云うのです。 初めは「そんなバカな!」と思いましたが、友人は大真面目で案内すると云います。 早速彼の車で帚木(ははきぎ)を見に行きました。 場所は日本アルプスの南端の名峰恵那山の長野県側の麓(長野県下伊那郡阿智村)で昔の国名で言えば信濃の国です。 そもそも帚木(ははきぎ)は54帖と云う長い物語の第2帖の巻名です。 その帚木(ははきぎ)は遠くから見れば箒を立てたように見えるが、近寄ると見えなくなるという伝説の木だと伝えれています。 古今和歌集坂上是則の歌「園原や伏屋に生ふる帚木のありとてゆけど逢はぬ君かな」で広く知られることになり、そこから、近づいても逢ってくれない人、逢えそうで逢えない人の喩えに用いられ、源氏物語では光源氏の逢えそうで逢えない相手として空蝉を指しているそうです。 ははきぎの「はは・母」の連想からまだ見ぬ母の喩えにも使われています。 

 

さて、その帚木(ははきぎ)ですが、中央道園原(古今和歌集の地名のままです)インターから程近い月見堂の裏山にあるヒノキの巨木です。 残念ながら伊勢湾台風で倒れて(と云うことは50年程前までは源氏物語の帚木がそびえ立っていた訳です)現在は根っこだけが残っています。 この辺りは古の東山道の神坂峠にあたり月見堂は、その昔伝教大師が神坂峠の急峻さに驚いて旅人の難儀を救うために作ったと言われる非難小屋(広拯院こうじょういん)の跡と言われています。 と云うことは源氏物語よりも帚木(ははきぎ)の方が歴史が古いことになりますね。 紫式部古今和歌集坂上是則の歌から帚木(ははきぎ)の着想を得たのでしょうか? 源氏物語に出て来る帚木(ははきぎ)が、まさか現実に残っているとは思いませんでした。 近くには「義経駒繋ぎの桜」と言われる桜の巨木など多くの巨木があり、また極めて風光明媚はところです。 近くには昼神温泉もあります。 古今和歌集源氏物語東山道伝教大師と歴史の話題豊富で雄大な自然の真っ只中、興味のある方には一見の値打ちがある勧めスポットです。                       

 

          風吹けば来るや隣の鯉幟     高浜虚子 

                                                      

地方では川や谷で沢山の鯉幟を泳がせるイベントが増えているようです。 青い空に泳ぐ 

鯉幟は我国の素晴らしい風物詩です。 少子化に負けずに続いてほしいものです。 

  

肩叩き

「母さん、お肩を叩き!タントン タントン タントン お縁側には日がいっぱい タントンタントンタントントン。」誰でも知っている童謡「肩叩き」です。作詞は西条八十そして10は中山晋平。沢山のヒット歌謡曲(誰か故郷を思わざる、越後獅子の歌、青い山脈等々)を作詞した西条八十の「肩叩き」です。

 

西条八十の母親は姑が厳しかったこともあって大変苦労をしたので、西条八十は母親の苦労を思い、母親の肩叩きをしていたそうです。

今、肩叩きをしている子供さん。年配となって、及ばずながら、肩叩きを始めたお父さん?とは言っても、核家族化と肩を叩いたり、揉んだりする家庭用の機械もたくさんあり、今は、お母さんの肩を叩くチャンスはあまりないかも知れません。古い歌ではありますが、母と子の自然な情愛がにじみ出たような、素晴らしい歌、そして、懐かしい歌です。

 

さて、残念ながらいかりじろうがこの歌で、思い出すのは残念ながら 楽しくない思い出です。それは、いかりじろうが子供(小学校3年生?)の頃、ある時たまたま、叔母(母の姉)に肩叩きを頼まれたことがありました。そこで数は忘れましたが、肩を叩く数を約束して肩叩きを始めました。 こちらは、叩く方なので当然のことながら間違えないように、正確に数えな がら叩きます。やがて、その数に来たので「もう終わったよ」と言うと、叔母は突然怒り出しました。 「まだ、そんな数じゃないよ!」「ウソを言ってはいけないよ!」叔母の剣幕 に子供の私は抵抗できませんでした。 その時は「口惜しかった!」の思いです。こちらが絶対に正しいのに、相手は大人こちらは子供だから、口惜しいけど抵抗が出来ません。

 

ところでいかりじろうも人並みに歳を取って、自らの子供に対する対応を反省した時、どうであったのか?。 幸いにも(?)肩を叩いて貰ったことはありませんが!。

誕生日

当たり前と言うべきか、当然と言うべきか、誕生日は誰にでもあります。一年 は365日ありますから、どの辺りの誕生日になるかは多くの方にとっては平均的と言うか平等な感じだろうと思います。しかし、中には当たり前、当然と思っているのに運悪く!(もしかしたら運よく!)平均的でない方がいます。

 

今年は閏(うるう)年です。今年の2月29日に生まれる方は大変です。何が大変って?!誕生日が4年に一度しかないからです。「年を取るのが1/4 になるのでいつまでも若くていいじゃないの!」と言う意見がありそうですが、時間の経過は誰でも平等なので、年齢の経過は同じで、そして、2月29日生まれの方だけが、誕生日が4年に1度になります。歳は同じように取るのに誕生日は4年に1度しかない。これは損なのか?得なのか? 多分若い時は誕生日が少ない分、損した気分になるだろうと思います。誕生祝いなどで差をつけられたり、からかわれたりと言うことがあるかも知れません。

 

これは運が良いのでしょうか?それとも運が悪いのでしょうか? 勿論、そんなことは考え方、そして生き方の問題ですが。
普段1年は365日ですが、閏年では2月が28日ではなく29日まであり、1年が366日あります。我々が使っている太陽暦は、太陽との自転速度の調整で4年に1度「2月29日の1日」だけ調整されています。閏年の時は夏季オリンピックが開催されるので、オリンピックの年と覚えておけば簡単です。一方、間年ではない年は「平年」と呼び、2月29日は「閏日(うるうび)」と呼びます。

 

さて、閏年にこだわってしまいましたが、その他の面白い(?)誕生日では4月1日、があります。昔は(戦前?)誕生日を申し立てで適当に申告出来たので、3月末頃の誕生日の場合など、前年の4月生まれと比較、1年近い開きがあるため、子供の負担を考慮して、4月生まれに届ける方もいたようです。.. ところが4月なら大丈夫だと信じて、4月1日生まれで届けると、何故か前年度の3月31日生まれ(早生まれ)の扱いになり、せっかくの親の配慮も無駄になります。これは「年齢計算ニ関スル法律」と「民法第143条」の規定によるためで「誕生日の前日が終了するとき(深夜 12 時)に年をひとつとる(=満 年齢に達する)」に秘密があります。現在は正確な出生記録に基づいていま すので、そんなことは最早ありませんが。甲子園そして、プロ野球で活躍した 桑田投手は、まさにズバリ、4月1日生まれで清原と同学年でしたが、もし4月2日に生まれていたとしたら、桑田投手曰く「あんな凄い先輩がいたら、野球をやめていたかも知れない」そうです。いずれにしても1年に一度(2月29日の方は4年に1度)だけの誕生日です。しっかり楽しんで過ごしましょう。

くぎ煮

昔、神戸へ来て間もない頃「いかなご」のことも、いかなごの稚魚を煮込んだ「くぎ煮(釘煮)」のことも知らなくて、春先(2月末~3月初め)になると多 くの家々でタイのあら煮のような香りがしていたので「へー、この辺りはタイのあら煮をする人が多いのだな!」と勝手に思っていました。やがてそれはいかなごと言う魚の稚魚(シンコ)を焚き、くぎ煮と呼ばれる佃煮にする匂いだと分かりました。くぎ煮と言われるのは、その佃煮が錆びて折れまがった 釘のように見えるからだそうです。くぎ煮を作る時期になるとスーパーや魚やの店先には、くぎ煮の幟が立ち、くぎ煮用のプラスチックの容器が並びます。毎年、くぎ煮をたくさん作り、友人や親戚などへ送る方も大勢いるようです。以上の話は以前に書いたことがあります。

 


さて、そのくぎ煮の材料になるいかなごの稚魚(シンコ)の漁獲量ですがですが、ここ5年間ほどは最盛期の半分ほどと不漁が続いているようです。不漁になれば、価格は上がり、特にたくさんの、くぎ煮を作る方には大きな負担となります。地元の名物として手作りの、くぎ煮を毎年贈っている方には大きな負担です。そして、その不漁の原因ですが、海(瀬戸内海)がキレイになっ たからだそうです。

 

日本の高度成長期には海の汚れ大きな問題となりました。魚介類が油臭い という問題がいたるところで発生しました。瀬戸内海は太平洋との出入り口がいずれも狭くて、海水の入れ替わりに1~2年かかるそうです。それだけ海水の滞留時間も長くなりそうです。海の汚れの原因は、工場排水や生活排水ですから、排水の浄化工事などに努力して、キレイな戸内海が戻ってきた と思ったら、水がキレイなので餌が少なくて、魚がれないとは!?.

 

昔から言う「水清ければ魚棲まず」とは、このことかと思います。
これまできれいな海を取り戻そうと官民挙げて努力してきたのに、もう一度汚すことも出来ません。海がキレイニなったことを喜ぶべきか!それとも、魚が獲れなくなったことを嘆くべきか!「水清ければ魚棲まず」とは、物事には程の良い加減と言うものがあることを示しているような気がします。 山と海は深い繋がりがあり、山の養分が海に流れ込んで海産物を育てることはよく知られています。具体的に、どんな手立てがあるのか、いかりじろうには分かりませんが、知恵を絞ってキレイ豊かな海を実現したいものです

酒の海外人気

酒(日本酒)の国内消費量は、ピーク時(昭和48年)の半分以下に減少し、近年は微減状態続いていますが、一方、海外での酒(日本酒)人気は着実に上がっている

 

昨年は金額で200億を超え、10年前の3倍だそうです。酒飲みを自称するいかりじろうとしては嬉しい限りです。いかりじろう自身は初めの頃は、ビールと安物ウィスキー一辺倒で日本酒は殆ど飲みませんでした。しかし、歳とともに日本酒を飲む機会も増え、旨さも分かるようになり、好きな銘柄もできて、辛口だ、甘口だと一人前の口を利くようにもなりました。酒(日本酒)を初めて飲んだ外国人が「これは旨い!」と気に入ってしまうことはよくあるようです。

 

それだけ酒は世界共通の旨さを持っているということだろうと思います。 アメリカニューヨークなどでは、多くの種類の日本酒が飲める酒場もあり、大いに繁盛している様子がテレビで勢道されています。いかりじろうは飲む方が専門(?)ですので、酒を造る方は分かりませんが、新酒が市場に出回るのも毎年のたのしみです。

 

酒米を、春に植え付けして、秋に収穫、そして仕込み、冬から翌年の春にかけて新酒が市場に出回ります。酒には税法上の酒造年度と言う制度があり、7月1日から 翌年6月30日までが酒造年度で、この年度内に作られ、出荷された日本酒が「新酒」となるそうです。このため各酒造メーカーはこの酒造年度を製造計画の区切りとしています。

 

一般的に「新酒」は、その年の秋に収穫された新米で仕込んだ「新米新酒」、冬の寒い中で仕込んだ「寒造り新酒」と呼ばれるものが多く、冬から春にかけて出荷されます。

 

ウイスキーやワインのように、仕込んで何年も経過した古い酒が値打ちが出るの も、面白いというか楽しみですが、毎年仕込んだ新酒を頂く事ができるのも、素晴らしい楽しみです。この時期(冬から春)はちょうど新酒が出回る時期です。 フランスのシャンパン業界の巨匠が日本酒の旨さに感心して、日本で造り酒屋を始めるという話もあり、日本酒の旨さは今や世界に広がろうとしているようです。アメリカでは酒米の栽培もおこなわれているそうです。フランスでは食材の一つとして米の栽培が行われており、その米で日本酒を作る計画も進んでいるようです。飲むだけでなく、作る方も世界に広がろうとしています。

 

このフランス産の日本酒は旨い!」と言うような時代がそんなに遠くない時期に来そうです。今年も新酒を大いに楽しみましょう。

佐藤B作

以前から、佐藤B作と言う俳優が、と言うより「左藤B作」と言う芸名が気になっていました。何故A作やC作でなくて「B作」なのか。

 

A(栄)作では元総理大臣でノーベル平和賞受賞の佐藤栄作氏に余りに恐れ多かったのか? Aの次はBと言う順番なのか。ネットで調べてみると、やはり沖縄返還に絡んでノーベル平和賞を受賞した元総理大臣、佐藤栄作にちなんでの命名だそうです。その件を読むと、佐藤B作の本名「佐藤俊夫」は父親が「砂糖と塩」とかけた洒落で命名したそうです。なかなか洒落たというか面白い感覚のお父さんのようです。問題の芸名「B作」は、ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作元首相にちなんで「(栄) A作に対抗してB作とした」とあります。1995年にアフリカのガンビア共和国からノーベル平和賞の受賞者と して佐藤栄作の切手が発行されましたが、何故か誤って「Bisaku Sato」と表記されていたそうです。いかりじろうの勝手な想像ですが、はるかに離れた西アフリカのガンビア、日本の情報も少ないとすれば、もしかしたら、この表記の間違いは、佐藤 B作の芸名が多響しているのかも知れません。もしそうなら、B作、恐るべし!

 

本名の佐藤俊夫(砂糖と塩)から始まって佐藤B作氏は、ユニークな芸名の運命にあるのかも知れません。漫才ならA作B作のコンビ、三人コンビならA作B作C作など考えられますが、A(栄)作に対してB作としたところが、値打ちかも知れません。一人の俳優の看板としてB作と名前を付けるのは大いなる決断であったのではないかと思われます。その B作氏は皆さまご存知の通り、俳優として立派に成功されています。

 

さて、我々一般人でも、名前(本名)がいわゆるキラキラネームや社会常識からおかしい名前で悩んでいる方、中には、親から、ひどい名前をつけられて悩んでいる方もいるようです。親の問題はこの際一先ず置いて、条件が整えば改名(通称でなく本名)が可能です。本名でも芸名でも「名は体を表す」と言われるほど、大切なものです。立派な名前を自分のものにして大いに人生を 楽しみましょう。