死にざま 生きざま 

 

 

  

 

作家、司馬遼太郎が「カネを積まれても使いたくない言葉」として「生きざま」をあげていたと何かで読んだことがあります。また、内舘牧子さんは「ざま」は醜い様子や状態を見下げたり、いやしめたりする言葉だと考えていたが、1998年刊の広辞苑にこの「生きざま」が初めて載り、 意味を「人の生き方」としていることに憤っていたそうです。「死にざま」はあるが「生きざま」と言う言葉はないと何かで読んだこともあります。 

 

しかし、現在では辞書にも載っており、テレビなどで、何の躊躇もなく頻繁に使われる言葉です。早急(さっきゅう)と早急(そうきゅう)も話題になりましたが、今や、早急(そうきゅう)派が優勢のようです。テレビで時代劇を見ていたら、年配の主人公はセリフで、早急(さっきゅう)と言い、若い家来は早急(そうきゅう)と言う場面がありました。この違いが、役者の年齢によるものなのか、他の理由なのか、分かりませんが、ある種の混乱があるのは、事実でしょう。 

 

「ざま」の件に戻れば、例えば「ざまはないな」とか「ざまを見ろ」など本来は軽蔑を意味する言葉なので、その「ざま」を生き方と言う意味で「生きざま」と言うのは間違いであるし、云われた方に失礼であると言うことのようです。国語の本来の意味、あり方からすれば、その通りかなと思います。  

 

しかし、言葉は時代とともに変化するものであること、そしていかりじろうが「生きざま」と言う言葉に感じるのは、生き方の強調、あるいは、その生き方の激しさを表しているのではないかと感じます。言うまでもなく人の生き方は生まれ育ちから始まり、思想信条、宗教、環境などで、様々です.  普通の家庭に生まれて、すくすく育ち育てられ、大過なく人生を過ごし、そして終わる方がいる一方、厳しい環境に生まれ育ち、苦しい厳しい状況と闘いながら、人生を生きる方もいます。幸不幸は本人の評価、感じ方なので別として、激しい、厳しい人生を表現するときに「生きざま」と言う表現がぴったりくるように感じます。多くの方にとって人生はそれぞれ激烈な苦しい物でしょう。

 

一つだけ例を挙げれば、昭和30年代のことですが、ある女性が一人で子供を育てる為に、売春をしていたと言う話を聞いたことがあります。現在とは時代背景など違う中で、他に取るべき生活手段がなく、本人にとっては子供と生きるための究極の選択だったのでしょう。このような苦しい厳しい生き方を表すのに「生き方」ではなく「生きざま」がふさわしいと思うのですが如何でしょうか? 勿論、この生き方「生きざま」を否定する考えもあるでしょう。であればこそ、この生きざまを貫いて子供を育てた女性は立派だと思います。「生きざま」はカッコよいとは限りません。他人から文字通り「なんだ、あのざまは!」と嘲られることもあるでしょう。しかし、それを乗り越えて人生の責任を果たす(例えば育児)のが「生きざま」ではないかと思います 。

 

現在でも、隠れた貧困、子供食堂、新型コロナ関連など、生きざま(生き方の厳しさ)の問題は、いろいろあり、多くの方が、それぞれの生きざまの中で戦っています。今回はいかりじろうにしては、非常に真面目な内容でした。

 

ところで最後に、いかりじろうの生き方「生きざま」は? 右往左往です(笑) 

  

銀杏を拾名画の農夫めき   高田令子 

  

名画落穂ひろいの連想かな? 銀杏拾いが一気に名画になった感じですね。