擦半(すりばん)

現在は火事が発生すれば、サイレンが鳴ります。しかし、昔は半鐘が打ち鳴らされました。都会では昔(戦前から)サイレンでしたが消防車のサイレンは手回しで、消防車の助手席立っている人が左手でしっかり車に掴まり、右手でサイレンを回していました。今や地方の小さな町や 村へ行っても、サイレンは常備され、半鐘の出番はなさうです。 

 

現在では、擦半(すりばん)と言っても、何のことなのか分からい方が多いかなと思います。 ここは一つ、美空ひばりの歌った「お祭りマンボ」の歌詞を見てみましょう。 

  

美空ひばりの御祭りマンボ 

作詞作曲 原 六郎 MIDI作成協力 マルちゃん 

 

私の隣のおじさんは 
神田の生まれでチャキチャキ江戸ッ子 
お祭りさわぎが大好きで 
ねじり鉢巻揃いの浴衣 
雨が降ろうがヤリが降ろうが 
朝から晩までおみこしかついで 
ワッショイ ワッショイ 
ワッショイ ワッショイ 
景気をつけろ 塩まいておくれ 
ワッショイ ワッショイ 
ワッショイ ワッショイ 
ソーレ ソレソレ お祭りだ 
おじさん おじさん 大変だ 
どこかで半鐘が なっている 
火事は近いよ 擦半 
何をいっても ワッショイショイ 
何をきいても ワッショイショイ 
ワッショイ ワッショイ 
ワッショイ ワッショイ 
ソーレ ソレソレ お祭りだ 

  

まだまだ長いので、ここで止めておきますが、「擦半(すりばん)」とは、昔、火事を知らせた火の見櫓の半鐘の打ち方だろうと想像出来ます。お寺の鐘は大きくて梵鐘、音も重々しくゴーン~。それに対して半鐘は小さく(だから半鍾)火事などの危険を知らせるために音もカンカンカンとけたたましく打ち鳴らされます。火事が近い場合、連打が激しくなり、それが擦半鐘で略して「擦半(すりばん)」と言われます。 

 

「火事と喧嘩は江戸の花」と言うように昔は木造家屋が多くで、消防設備もなく、火事となれば大変なことでした(もちろん今でも大変ですが)半鐘の歴史は江戸時代に遡りますが、昭和に入っても戦後しばらくは地方では半鐘の時代が続きました。 

 

さて、地方によっては今でも火の見櫓の半鐘が、消防団活動ともに生きている地域もあるかも知れませんが、殆どの市町村では、半鐘はサイレンに変わり、火の見櫓だけでなく消防署の望楼も、特に都市部では、より高い建物に取り囲まれて役に立ちません。 この曲(お祭りマンボ)は、昭和27年(1952)に作られた曲です。当時は戦後の復興期で世の中もようやく落ち着きを取り戻しつつある頃でしたが、地方へ行けば火事の時には半鐘を打ち鳴らす時代でした。 

 

さて、半鐘もサイレンも火事(あるいはその他の災害)を知らせる手段ですが、そこから活躍するのが消防署の職員と消防団員です。火事となれば消防署の職員は勿論、消防団員も出動します。消防署員は公務員ですが、消防団員は日常はそれぞれの仕事を持ち、火事などで出動の際は特別公務員と言う資格になります。消防署も消防団も組織消防法で規定されている組織です。簡単に言えば、消防団は江戸時代の町火消しと言ったところでしょうか。東日本大震災の際には、災害救助に出動した多数の救消防団員が津波に巻き込まれるなどの犠牲となり尊い命を失っています。このように、半鐘からサイレンへ、あるいは防災無線へと警報の手段は近代化しても災害の現場で危険を冒して消火や救助作業を行うのは人間です。美空ひばりの歌の「擦半」の話しから内容も時代も、ずれて来ましたが、火事などの災害から、町をそして人々を守る精神は変わりません。「災害は忘れた頃にやって来る」ようです。 そこでお祭りマンボの最後の言葉を心に刻んでおきましょう。 

 

「お祭り済んで日が暮れて、冷たい風の吹く夜は、家を焼かれたおじさんと、へそくり盗られたオバサンの、ほんに切ないため息ばかり、いくら泣いてもかえらない、いくら泣いても後の祭りよ」